今日のランで重要かもしれないことを2つ気づいた。
1つは怪我の治し方について。
もう一つは走る前の補給についてだ。
これはググって調べたわけでも本を読んだわけでもなく、自分の感覚による僕の考えなので、参考にするかどうかはあなた次第。
気づきの記録としてここに書いておく。
怪我の原因を知ったきっかけ
今日のランは10.88キロ、1時間でキロ5:30ペースだ。
ここ最近の僕の傾向としては、まあまあの強度。したがって、足への負担もまあまあ大きい。
ここ1ヶ月以上、左の内くるぶしに痛みがあるのだが、少し走って体が温まると痛くないので、そのまま走っている。
しかし、走り終えると炎症しているのがわかり、悪い時は少し腫れている。
そんな状態がしばらく続いている。
が、今日走り出す前に、あることに気がついた。
5本指ソックスの左の親指だけに、穴があいているのだ。
まさかと思い他のソックスも見てみたところ、なんとそのソックスも同じ場所が穴あきかけていた。
それで合点がいったのだが、左足の痛みは、僕の着地のクセによるものだったのだ。
左足だけ、どうも足首の角度がもともと内転してくっついており、無意識に走ると内側に体重がかかってくるようになっているようなのだ。
言われてみれば(誰も言ってないが)、左足の親指だけ、皮が硬くタコっぽくなっている。
これは普段から内側に体重がかかっている証拠なのだ。
足首が内転すれば、内側に負担がかかる。
くるぶしの痛みは、これが原因だった。
そこでこのように試してみた
普通に着地すれば内転してしまう。
そこで、今日は意識して足の外側に体重が乗るように、着地を調整してみた。
なんとこれがハマり、中盤からの疲労感がかなり違った。
最後まで快適に走れ、痛みも出なかった。
心なしか、推進力にも無駄がなく、いつもより軽く前に進む感じがした。(これは気のせいの可能性が高いが)
怪我の治し方について考察。走りながら治せる!?
怪我は一般的には、きちんと休んで回復させるのが良いとされる。休むのも練習だと。
もちろん正しいと思うが、実際は走りながらでもかなり治せるのではないか?
当然怪我の種類やひどさにもよると思うが。
むしろ、ここからが大事
休んでも根本解決をしなければ、再発する
ということが重要なのだ。
つまり、怪我をする原因を潰さなければ、本当に治ったことにはならない。
例え話をすると、糖尿病になったとする。
医者に行って薬をもらう。それを服用して、とりあえずの症状は改善した。
しかし、食生活を変えなかったため、通院を辞めたらまた再発した。
こう言う話なのである。
この人の糖尿病を治すには、生活習慣を改めてもらわないといけない。
糖尿病になったの原因は、生活習慣にあったからだ。
いくら薬で対処療法しても、その場の症状が和らぐだけなのである。
ランニングの話に戻そう。
怪我をした根本の原因を見つけなければ、本当には治らない。
例えば、フォームのどこが悪い、着地のバランスがどうなってる?とかだ。
逆に言えば、きちんと原因をつかめれば、それを意識しながらランニングを続けることで、フォームが改善されるし、問題箇所の負担も軽くなるので、怪我は治っていく。
痛いからと言ってただ休むのでは、さっきの糖尿病患者のように、見かけの症状が和らぐだけなのだ。
運動を再開すれば程なくして再発するだろう。
むしろ、クセを治すためには走らなければならない。
休んでもフォームは治らないからだ。
また、改善するポイントを意識して走ることで、正しくつくべき筋力がつく。
その筋力が、痛みの出る箇所に負荷がかかるのを防いでくれる。
つまり、怪我は走りながら治せる。
走る時の補給について気づいたこと
さて、メインの話はここまでで終了なのだが、もう一つ重要なことがあったので書いとく。
いつも僕は空腹状態でランニングを始める。
水以外何も口にしない。
これは体にグリコーゲンの節約を覚えさせるためなのだが、やはりけっこうキツイ。
ほんとうにエネルギー切れの時は、キロ6分すら出せなくなる。
そこで今日は、走る前に梅干しを一つだけ食べてみた。(実家でオカンが漬けたやつを正月にもらってきた)
そしたらなんと、中盤以降、いつも空腹の限界で魔物になりかけるあたりで、元気になったのだ。
空腹を感じないわけじゃないけど、空腹感が快適になる。軽くてむしろエエわーって感じ。
これはミネラルのおかげ?なのかな?
調べれば出てきそうな話だけど、ここまで違うとは驚きかも。
夏場によく水と塩をなめるって聞くじゃない?あれもミネラルだよね。
そういうことなのかと。
ただ、気まぐれで元気になっただけの可能性もあるので、しばらく検証したい。
ということで、今日気づいた2点でした。
ランニングに関してそんなに意識高いわけじゃないけど、続けてると気がつくこともあるんだな。
そう思うと、毎日継続するということは、多くの気づきを得ることなのかもしれない。