つまらない人生を楽しくする方法
突然だけど、あなたは
「自分の人生に人生をかけて取り組めているだろうか?」
おかしな日本語だけど、問いたいのは自分の人生に、ホントウに愛情と情熱をかけて生きているか?ということだ。
もし、できていない、あるいは自信が無いと思ったら、ちょっとだけ先の文を読んでほしい。
もう一つ質問。
あなたは、「人生つまらない」と思っていないだろうか?
もしそうなら、こんなことを感じてはいまいか?
何かに打ち込むこともなく、夢中になるものも無い。
毎日がただぼんやりと過ぎていく。
生活に張り合いが無く、充実感も無い。やりきった感がない。
でも、どうしようもない。
だって、仕事が忙しいから。
だって、ブサイクだから。
だって、才能が無いから。
だって、金がないから。
だって、運が悪いから。
しかたないから、凡人として折り合いをつけて生きている。身の程をわきまえるのが大人の態度だと学んで、あきらめて生きている。
なのに、そんな状態に、心の底では納得がいってない。
さて、どうだろう?
こんなふうに言われると説教じみて感じ悪いし、じゃあエラそうに言ってるお前はどうなんだよ、となるだろう。
僕自身ほんとうのほんとうにそんな生き方ができてるか?と言われたら自信がないし、あなたとなんら変わらない、ふつうの人だ(ほんとに普通かどうかについて異論は認める)。どっかのエラい人の格言みたいに言われたって、「そんなの現実にはムリぽー。ぺぺッ!」と思う。
だけど、だけどだ。
現実にはそんな生き方ムリだと思っていても、心のどこかでは燃えるような人生を送りたいと思っている自分がいる。ホンネはそうではないか?
人生は一度きりだし、当たり前だが自分の人生はたった一つだ。ゲームみたいに、何パターンかセーブできるわけではない。
だとしたら、本気で人生かけて生きていないとマズいんじゃなかろうか?だって、たった一度の、かけがえのない、自分だけの、大切な人生なんだから。
とはいえ、そんなフワッとしたでかい問題をいきなり叫ばれても困っちまうと思う。どうすりゃいいかわからんから苦しんでる。
「そんなことくらい分かってんだよ」
「はいはい、もっと努力しなさいっつう説教ね。ウゼー」
「そういう昭和の根性論みたいのいらねえから、残業代払えよ」
そんな声が聞こえてきそうだ。
わかる。ポテチが歯に詰まるくらいわかる。
かつての僕もそうだった。そんなに肩肘張らず、もっと楽して、スマートに、効率よく生きていたい。それが今時の幸せってもんだし、実際それを目指して生きていた。
だが!!
そんな人生の最後に残るものは一体なんだろうか?
みんなと同じ流行り物を消費して、実はたいして欲しくもないもので身を固める。商品化された幸せをちょっとした金で買う。ネットで流れているラクな攻略法に安易に飛びつく。氾濫する情報に踊らされ、余分なものを増やす。余分なモノ――いわば贅肉――で図体が重くなり、本質が見えなくなる。
そんな雑多なものに振り回され、振り落とされないようにしがみつく。そんな賢い態度こそ勤勉だとされる。
だが本当に大切なのは、そんなことだろうか?
否!本当に大切なのは自分の気持ちではないか?人生の最期にどんな気持ちが残るのか。
つまり、そんな人生に納得できるのか、ということだ。
ちょっと話はそれるけど、「人生」と「生活」は英語だと同じ「LIFE」である。つまり、人生とは生活のことであり、毎日積み上げた生活の結果が、人生なのだ。
人生って言葉を使うとどうも未来の話に聞こえるけど、未来も過去も存在しない。あるのは「今」だけだ。
つまり、人生は未来にあるのではなく、「今」なのだ。今の生き方がすなわち人生である。
だとすれば、「今」の生活に充実感を持ち、納得できていないなら、それは人生に納得していないのと同じだ。納得していないということは、つまりなんらかの理由で不本意に思っているということ。
なぜ不本意なのか?
それは「もっと別の人生があったはず」という想いがあるからだ。本当はもっとやるべきことがあるはずなのにやれていない、もしくは何をすべきかわからない。
もっと別の人生=生活とはどんなものか。
それこそが、僕らが本当に求めている、手に入れるべき生活ではないか?
僕らは何を求めているのか?
それは、やはり夢や目標、真にやりたいこと、それ以外に無い。
そしてそれを達成するために努力する生活こそ、僕らの求める生活=人生ではないか?
毎日何かの目標に向かって邁進する、燃えるような灼熱の生き方。それは間違いなく充実したものだし、結果が出なかったとしても楽しいものだ。
それすなわち、「人生に人生をかけている状態」なのだ。
なんだよここまで引っ張ってやっぱり「努力しろ」かよ。と思っただろうか。はたまた「努力より才能や運が重要だ」と思ったか。
僕自身過去にはそう考え、努力を否定し斜に構えていたりもした。しかし今は明確に言う。
「努力するべきである。」
なぜなら、努力できている生活=人生こそ、充実するからだ。充実した生活は、シンプルに楽しい。努力は辛いものではなく、楽しいのだ。
人間には元来、成長したい欲求がある。つまり努力したい生き物なのだ。誰もがホントは頑張りたい、頑張る自分でありたいと思っている。頑張る自分なら、愛せるから。
でもそれを否定したくなるのは、努力すべき対象が見つかっていないだけなのだ。そんな自分に劣等感を感じ、心を守るためには努力を否定するしかない。
心配しなくても、大丈夫。努力する人はやはり、カッコいい。
「人生をかける」ほど本気になれる自信が無い?
大丈夫。「人生」と言えば大それた話になるけど、「生活」と考えれば大したことはない。
生活の中で確保できる時間を、大切なことのために使えばいい。今までボケッとYouTubeを観ていた時間を、やりたいことに使うのだ。始めは少しの時間かもしれないけど、まずはそこから始めればいい。
それをやった一日が充実したなら、それはあなたの新しい、真の人生の始まりだ。
このブログが目指すのは、僕もあなたも「人生をかけて人生を生きてる状態」で居続けること。
僕は僕にとっての大切なことを記録していく。同時に、人生かけて生きるあなたの、ためになったりならなかったりする情報も書き残したいと思っている。
チャレンジングな人生はラクではない。周りの人はもっと効率よく、ラクに賢く生きてるかもしれない。頑張るあなたは孤独を感じるかもしれない。
しかし、困難でも大切なことのために生きる以上に、大切なことがあるだろうか?人生をかけるべきことがあるとしたら、夢や目標の他に何があろうか。
そして、唯一無二の人生で、どうでもいいラクなことのために、何一つかけずに生きていいのだろうか?
ラクな人生、何かにかけた人生。どっちを選ぶかは、あなた次第だ。
タイトル【カケルダイアリー】に込めた意味
おそらくほとんどの方が気付いていないだろうけど、先ほどから連呼している「人生をかける」の「かける」に掛けている。
それに加え、「カケル」にはいろんな意味を持たせた。
駆ける……走ること。ランニングとかトレランとか
翔ける……飛び回る。旅すること。
書ける……小説の執筆やブログを書くこと。
掛ける……これらの様々な意味をかけること。
賭ける……人生を賭ける。自分の可能性に賭ける。
架ける……人と人、モノをつなぐ架け橋。
欠ける……完全ではない自分、あなた。不完全を受け入れ、愛する。
×(かける)……旅×走×書。その他いろんな分野をかけ合わせることで新たな価値を生む。あなたの持つ要素をかけ合わせて、「つまらない」を「楽しく」する。
人生をかけて人生を生きる。それにより、人生に真の喜びと楽しさをもたらす。
それがこのブログのコンセプトだ。