おっさんが居酒屋で語るクソ話

自分の代わりはいくらでもいる。それを知ってからが人生だと思うのよ

僕は会社員のころに3回くらい”飛んだ”ことがあります。

飛ぶってのはバックレるということ。勝手に出勤しなくなるやつですね。

社会人として飛ぶなんてことは、とても恥ずかしいし責任感のない行為だと思っていました。

もちろんその通りで反省しなければいけないことでもあるんですが、ぶっちゃけそのおかげで人生をちゃんと考えるようになったとも言えます。

 

最後に飛んだのは31くらいの時だったかな?

それがきっかけで、僕はあることに気づきます。

それは、「自分の代わりなんていくらでもいて、自分一人がいなくなったところで、世界は何一つ変わらない」ということです。

 

これは捉え方によっては絶望になりますが、これを知ってからが人生だ、とも言えます。

なぜかというと、こういうことです。

「自分がいなくても世界はいつも通り回る。だったら、自分はなんのためにいる?それは自分を満足させるためではないか?」

 

自分は世界になんかしらの貢献をするために生まれてきた、と信じてきたわけです。

だから、自分が世の中に対して、1ミリも、なんの影響力も持っていないことを知った時は絶望しました。

普通なら、ならば自分が存在している価値はない、と思います。僕もそうでした。

 

しかし、死ぬわけにもいかない。どうすればいいの?となります。

ただただ消化試合のような生活が始まります。

だけどそのうち、気づいたんです。

「そうか、ほんとは誰も何かの貢献をするためになんて生まれてきてない。自分だけじゃないんだ。だったら、やりたいことを好きなようにやればいいじゃないか!」

 

僕が人生を真剣に考えるようになったのはそれからです。

どのように生きれば満足するのか?納得できるのか?

やりたいことをやる、にしても、そう言えば自分のやりたいことってなんだ?

社会のためになるのが生きる目的だと思い込んで生きてきた人にとって、「自分が、ほんとうに」やりたいことってわからないものなんですよね。

だって、「他人にとって」約立つことって何か?という思考回路しかないんですから。ベクトルが自分に向いてない。自分のことがわからない。

 

自由に好きなことをするのって、難しいです。

敷かれたレールどうりに、不自由さに愚痴を言いながら生きている方がよっぽど簡単です。

それでも、常識というレールどうりにそれなりに頑張れば、それなりの生活は保障されます。日本はきちんとした国です。それなりの幸福も手にできるでしょう。

でも、僕はひねくれてるんで、用意された幸福なんて納得できません。

許された自由を、使い切らない人生なんてもったいない気がします。

 

自由でいることは難しいです。

自分で考えないといけないし、自分で決めないといけない、そして責任は全部とらないといけない。

自由だけを使ってると、まともに生活できなくなります。

だから苦しくて、不自由に自ら戻る人もたくさんいます。

 

不自由でいることは思考停止して生きていけるということです。それは楽です。

思考することはしんどいです。だから僕は痩せています。

自由でいるために、思考停止はできません。

 

自由だとかそういうことを口にする時点で、贅沢な悩みだ、と言う人もいます。

だけど僕は、贅沢だとは思いません。

より良く生きたいと考えるのは、人間の本質だと思うからです。

それよりも、思考停止して惰性で生きてる人の方が、よっぽど贅沢だと思いませんか?

 

人生を真剣に考えるようになると、しんどいです。

考えるほど、ますますわからなくなります。

自分はこういう人生を進むべきかも?というのが見えそうで、また見失う。

トンネルの次はトンネル。

でも、人生ってきっとそういうものなんです。

ユートピアにいると勘違いして、腑抜けた平和ボケの顔をして生きていたくはない。

直視すれば厳しい世界なんです。現実はユートピアではなく、そういう厳しい世界です。

だから、ちゃんと厳しさを直視して生きていたい。

真剣に生きてれば、たぶん顔に出ます。

僕はどんな顔をしているだろうか。

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