今日はニューイヤーマラソンin国営昭和記念公園、ハーフマラソンに参加してきた。
やや寝坊したにも関わらずのんびり会場へ向かったら遅刻しそうになって、バタバタと最低なスタートを切るハメになったが。
そんなこともあったけど、終わってみればサイコーだった。ほんとにチャレンジしてみてよかったと思う。
記録は1時間42分47秒。
目標ははっきり定めなかったけど、頑張って1時間45くらいかなと思っていたので、現時点では納得のいく走りができた。
おとといに筑波山でトレランのようなことをやって足がガチガチに筋肉痛だったことも考えると、まあまあがんばれたと思う。
とはいえ、当たり前だがすんごい速い人がたくさんいた。
僕ももっとしっかり継続して練習したらあんなふうになれるのだろうか?
なりたいなあ、上位争いできるくらいまで。
走ってみて思ったことがある。
僕のタイムは、30代のマラソン初心者にしてはまあまあ速いほうだと思う。
だけど、僕は正直もともと長距離走に適正がある。ベンチプレスとかそういうパワー系よりも、持久系なのだ。
子供の頃から走るのは速い方だったが、線が細いのでパワー系には向かなかった。
力はそこそこあったが、それも中学生まで。
高校になったら、体の大きいやつらにはそっちの方向では勝てなくなった。
野球でもパワーがなくてホームランを打てなかった。
何が言いたいかというと、要するにどちらかといえば、長距離の方が才能があるのだ。
だけど、ここからが大事。
才能だけでは、絶対に勝てるとこまではいかないということ。
才能とは小さな芽であり、可能性の一つだ。
当然、小さな芽があるだけでは、樹齢何百年の大樹を前にして完全に無力だ。
才能という可能性があっても、育てないと「へー、けっこうやるじゃん」くらいにしかならないということ。
走ることについての僕は、今そこ。一般の人に言ったら、「へー、すごいじゃん」くらいに言ってもらえる程度だ。
世の中、そんなレベルのものに価値はない。(競争社会においては、ね。)
言うたら偏差値55くらいだ。
中堅私大か地方の国立大に合格するくらい。
そこそこ優秀だけど、フツー。
僕は容量がいいので、そんくらいのレベルには初心者段階で、たいていのことは到達する。
だけどそこで止まる。「初心者にしてはすごい」で満足してしまう。
才能や適性があったとしても、世間的に認められるようになるには、必ず時間を要するのだ。
何十年に一人とかの歴史的天才でないかぎり、初めてやってみた、でいきなり革命的な業績を出すなんてことはない。
価値あることは時間をかける必要がある。
効率の面で言ったら、効率は悪いよ。
でも、本当にやるべきことは、効率の悪い継続だ。
そうしてやっと、世間的に意味のあるものができるのではないか。
今の世界は、すべて効率、時間をかけないことに価値が置かれる。
「わずか何ヶ月で月収うん十万」
「たったこれだけで業績があがった」
無駄をなく、効率、効率、効率。。。
時間をかけるのは無能だ!
そんなのばっかり。
クソ。くだらない。
簡単に立つプレハブ小屋やんて数年で壊れる。何十年かかったピラミッドは数千年残る。
無駄を恐れずに腰を据えてやる。
走ることは絶対に、そうやって多くの時間をかけなと速くならない。
僕は小説を書いてる。
走ることとおんなじだよなあ。
結果は早く欲しいよ。
一刻も早く売れたい。稼ぎたい。僕の仕事はこれです!って自信を持って言いたい。
だけど、そんなにすぐ結果が出てしまってはいけない類のものだと思う。
すぐに出来上がっちゃいけないのだ。
風雨にさらされて、雪に埋もれて、日照りに干されて、やっと少し育つくらいがいい。
そう、屋久杉みたいに。
もし僕に多少の文才があるのだとしても(ないけど)、長い時間かけて磨いてかないと、読まれるものにはならないだろう。
それは走ることとおんなじなのだ。